おおきな山場は越えて こまごまと 人にみせるための空間をつくりあげていく
途中 池田さんからの指摘有り
とてもとても 考え込む指摘
この数年 地域や日常や 美術というものから縁遠いひとたちに囲まれる中での制作
その中で培った 人との関わり方や 絵の見せ方
今回の展示は それを改めて 白い空間で行うということ
その意味を十分考えつつ 自分也の解答をだそうとしてやってきたけれど
白い空間には 白い空間の見え方 というものが確かに存在していて
わたしはやはり まだまだ こういう空間を使いこなす経験をしていない
だから 指摘にははっとさせられる
しかし だがしかし という部分と いやしかし という部分がせめぎあう
白い空間のセオリーがあるとしたら それを壊したい しかもこれまでの経験で自分が得たものの考え方で
と思う一方
見に来る人の意識は千差万別で ちょこっとしたことで
ひっかかりが出来てしまう人と 逆に 良く作用するひとがいる ということも
わかる ただ その具体的な 見せたい人像を 特定しにくいのが 白い空間の特徴かもしれない
ある地域 であれば その場のもっているものや 人間の気質を知った上で
やはり そこの人に見てもらえるようなものを目指す
そして そうしてきた
それを色々な場でやってきて 地域が変わっても不変の見せ方もうっすら見えてくるけれど 今回のように 地域や人を手がかりにしにくい場合
セオリーが 重要度を増すんだな
とてもむつかしい問題で もっと 考え抜く必要有り
絵 そのものは どんなひとにもひらかれているものだし そのやり方は 自分で習得してきたものを信じるしかない
でもそれを見せる時 わたしは今回 誰の顔を思い浮かべているのでしょう
つきつめて特定していくと それはやっぱり わたしのこれまで出会ったひとたちで
色々な場所でであった人たちと また出会い直すこと そこに対する大きな確信は あります
でも 知り合いだけがみにくればいいのではない そういったとき
相手の顔がのっぺらぼうになる
自分というところから うまく想像できなくなる
でも それをしなくちゃいかん
池田さんに ここは 空間だから と言われた言葉がひっかかっている
絵は一枚一枚みるものだけど ここを訪れたひとは この つくられた空間の中で
絵と出会う
てことは やっぱり 空間そのものも 絵とおなじように 表現しなきゃいけない
てんでばらばらの意識とタイミングとコンディションと生い立ちで来るひとたちに
どうやったら絵と向き合ってもらえるか
それをつきつめたら 無 みたいなもの ホワイトキューブになったんだろうけど
なんだか昨今 ホワイトキューブの場所性 というものが 地域の場所性くらい
強くあるような気がする
それに抵抗したいきもちと 抵抗によって絵が見えにくくなったら駄目じゃん というきもち
ホワイトキューブこえー
何もなくて 何でもいいはずなのに 癖がある
つくること と同じくらい みせること を極限まで考えざるを得ない場所なのかもしれない もしかしたら この数年のまとめは ホワイトキューブをどうやっつけるか
なのかもしれない
今までにない脳を使っているけれど どこかで やっぱり原理は同じじゃない?
とも思う
よくみえない対象を相手になにかをするとき 信じる根本は 自分のなか
絵を 絵をみてほしいです
絵と 一対一に なってほしい
情報は 邪魔なのか
伝えたいことは 絵だけで表すべきなのか
私が絵のまえで待っていること それでじゅうぶんか
たんなる情報になるのか 表現の一部になるのか
空間!!!
うーむ
と こころのあたらしい部分を刺激されながらも(池田さんの言葉はいつもそう)
押したり引いたりする 心の揺れよ
今は自分の信じる通り
でも いつだって新しい目で 状況をみていきたい
そして 変わっていきたいです
そういうわけで 明日はオープニング!
私は朝から 絵のまえにいます
絵のまえで会いましょう
今の自分からは 出し切った
人の反応で もうすでに変化しているとしても
BankARTに行く道すがらの 好きな木 葉っぱがまるい シャラシャラしている それの新緑がでていた 小さいまるが ほんとうに可愛いよ |
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